1年で3番目に忙しいこのとき(1番は年度初め、2番は卒業式~年度末)に、Chapter29に行ってきた。主の霊は私をまさに行くことが可能な状態に整えて下さった。私はよくぞ行ったなあと思う。いろんな意味で。
思えば、私はずっとずっと「労苦とわざわいを誇り」としてきた。たぶん母が死んだときからずっと、20年以上。短い中にいろいろあった人生、そのいろいろなことによって、ただの人間としても教員としても、ずっと人と自分を比較して生きてきた。人より遅い、人よりできない、人より不器用、人より不幸(こう思ってる時点で最悪)。働き出して数年は、ひたすらそう思い続けていた。本当に、時間を無駄にして、「自分の日を正しく数えず」に生きていたと思う。数えなくてもいいけど…
クリスチャンの人に会うときも一緒。誰かがみことばから語られたということを語ってくれるときに、恵みと一緒に、「あの人はなんであんなにわかるんだろう」という劣等感みたいなものにとらわれる。でもその劣等感自体、自分を誇りとしているしるし。
今日、朝からずっと放談を聴いて、昼食をとって、午後の話をしながら、「人によって、同じみことばでも、主が語られることや、主から受け取ることは違う」ということを、すごく強く感じた。
アラサー女子の私とSaltさんや銀じ郎さんでは、受け取ることが同じこともあれば、違うこともある。何より人生経験が全然違うし、信仰生活のあり方だって違う。
でも、それでいいじゃないか。
みんな語られることが違う。受け取ることが違う。
だからこそ私たちは交わって、分かち合っているんじゃないのか。
私たちは主にあって、体のそれぞれの器官としてつくられた。誰かが胃だったら、横の誰かは肝臓だったり、腕だったり、ばらばらの器官かもしれない。全然違う働きをする。でもそれがちゃんと主につながっていることなら、いいんじゃないのか。
それぞれが連動して働いているけれど、出される命令も受け止め方も微妙に違う。
Chapter29に行くのは3度目。いつも恥ずかしい思いになりながら出かけていく。ほかの人のようにみことばを理解してなかったり、自分の醜い部分を突かれる思いがしたりして、なんとなく顔をあげにくい。十字架で贖われたことを忘れてしまっているよ、と誰かに問われているような気がして。でも、本当にその通りだ。いや、そう言われたい気がして行くのかも…。自分一人でぬくぬくと生きていると、そのことを忘れて古い自分が顔を出してしまう。
Chapter29自体が、私のリセットボタンなのだと思う。交わりに行くにしろ、配信を聴くだけにしろ。そして、見たくない自分を改めてつきつけられて、それでもなお、主のすばらしさが心に残って帰ってくる。できればそうやって、何度も何度もリセットしてどんどん変わっていきたい。
へーとかそうなんですかーとかだけじゃなくて、ただ教えを請うだけじゃなくて、顔を上げて、そこに座れる自分でいたい。
私がそう思える年齢になるまで、主は私を待っていてくださったのかもしれない。
今日お世話になった皆様、ありがとうございました。
明日あたりにもう一度、配信を聴いてみることにしようと思います。
そしてどうかこれからも、よろしくお願いします。
でも、それでいいじゃないか。
返信削除みんな語られることが違う。受け取ることが違う。
だからこそ私たちは交わって、分かち合っているんじゃないのか。
本当にそのとおりです。忙しい中、本当によく来てくれました。とてもいい時間でしたね。
しみじみ、記事読ませていただきました。
返信削除正直で心打たれます。
そして、そのようなすみれさんに主が体の器官の喩えをもって語ってくださっているのを感じます。
自分と向き合い、主に耳をすませ、主にある仲間との交わりを愉しむ素晴らしい時間ですね。
配信を通しても、私も祝されてます。また、お会いしたいです。
Saltさん
返信削除本当に恵まれて、祝福された時間を一緒に過ごさせてもらえたことに感謝です。みなさん普通なら出会うこともなかったであろう場所にいて、主にあって出会わせて頂いた方ばかりなので、余計にその感が強いです。
またぜひ、ご一緒させてください。もはや出会うだけで、そこに主の祝福があるなあと思います。
makoさん
makoさんが率直に書いておられたことにもびびっときました。物理的な距離は離れていますが、主にある仲間との交わりが、いろいろな形で広がることがとてもうれしいです。
まだ信仰をもって日も浅いし…と言い訳がましく思ってしまいますが、本当はそんなことはたいしたことではないのですよね。私もまたまこさんにお会いしたいです。
寒い時期ですが、お体大切になさって下さいね。昨日の室生は雪がちらついていました。