2014/05/03

試みてはならない

 出張で、中1・2のときの担任だった先生に出会った。強面の理科の先生で、最初の授業のときに「クマは右手で蜂蜜を掬うから、クマの右手は珍味だ」という話をしたばっかりに、その後もずっと「クマ」と呼ばれ続けた先生。久しぶりに会ったら、教頭になっておられた。
 優等生すぎた私の、大変な時期をおつきあいしてくださった先生だ。

 前の勤務地の校区におられるので、「先生の学校に、私の教え子がいるんですよ」というと、「おお!そうか!授業も入ってるし、また聞いてみるわ!」と、昔と変わらない笑顔で答えてくださった。
 先生の教え子と私の教え子が、重なるときがきたんだなあ。
 あんなにひどい生徒だったのに、どこまでもやさしい人だなあ。


 家庭訪問の直前に、ちょっとした?「お試し」に出くわした。
 子どもはどうやら私がどんな教師で、どう対応するか見たかったらしい。親御さんは親御さんで、不安と、そしてやっぱり今年の担任がどういう人間で、どういう対処をしてくれるのかが気になったのだろう。最初に電話したときの口調はなかなか厳しいものだった。
 実際に動いて、家庭訪問で話をして、ようやく「あ、つながったかも」という感覚があった。そして、自分がなんとなく試されていたであろうことを感じた。覚悟はしてたけど、久々の高学年、やっぱり低学年とは違いますな。


 どんな人間なんや?
 あんなことや、こんなことをしても赦してくれるのか?
 こういうとき、わたしの味方になってくれるんか?
 その考え方でええんか?
 何をしたらおこる? どれぐらいおこる?
 わたしを傷つけたりしないか?

 毎年、この「お試し」に向き合うのはなかなかしんどい。ちょっと試すぐらいならともかく、とんでもなく怒って電話されたりすると「お、おお…」とさすがにこっちもひるむ。私もかつては試す側で、色々な手で担任を試していたときがあるので、不安も分かる。でも、ここでぶれてしまうと負ける。


 今、ヨハネの福音書をまた読んでいる。ちょうど荒野でイエス様がサタンの誘惑に遭うところ。
 「『主なるあなたの神を試みてはならない』と書いてある。」
 というイエス様の言葉がじーんとくる。
 決してぶれずに誘惑に打ち勝って下さったからこそ、こうして私も向かい合えるのだ。似たものとして作られたのだから、どうか私もそのようにありたい。難しいけども。

 私は、対人間の関係のように、主に依存することはできないと思っている。主は意味なく私たちを傷つけるようなことはなさらない。どんなことももうすでに赦されている。常に味方でいてくださる。主と私との間に、感情と感情のぶつかりあいもない。 色々失敗してしまうけど、主に不信感を抱いたことは一度もない。あたたかいけれど、人間のねっとりした感じはない。試さなくたって、主は私たちの信頼に必ず応えてくださるのだ。


 しかし「お試し」も、主にあってうまく収まったのだと思うと、自分の力でがんばっちゃっていたら…と想像するだけでぞっとする。もしあそこでイエス様がサタンにあれこれいらんこと言ってたら(言うわけないけど)…。キリストの地上の生を、もう一度ちゃんと読んでみよう。

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