優等生すぎた私の、大変な時期をおつきあいしてくださった先生だ。
前の勤務地の校区におられるので、「先生の学校に、私の教え子がいるんですよ」というと、「おお!そうか!授業も入ってるし、また聞いてみるわ!」と、昔と変わらない笑顔で答えてくださった。
先生の教え子と私の教え子が、重なるときがきたんだなあ。
あんなにひどい生徒だったのに、どこまでもやさしい人だなあ。
家庭訪問の直前に、ちょっとした?「お試し」に出くわした。
子どもはどうやら私がどんな教師で、どう対応するか見たかったらしい。親御さんは親御さんで、不安と、そしてやっぱり今年の担任がどういう人間で、どういう対処をしてくれるのかが気になったのだろう。最初に電話したときの口調はなかなか厳しいものだった。
実際に動いて、家庭訪問で話をして、ようやく「あ、つながったかも」という感覚があった。そして、自分がなんとなく試されていたであろうことを感じた。覚悟はしてたけど、久々の高学年、やっぱり低学年とは違いますな。
どんな人間なんや?
あんなことや、こんなことをしても赦してくれるのか?
こういうとき、わたしの味方になってくれるんか?
その考え方でええんか?
何をしたらおこる? どれぐらいおこる?
わたしを傷つけたりしないか?
毎年、この「お試し」に向き合うのはなかなかしんどい。ちょっと試すぐらいならともかく、とんでもなく怒って電話されたりすると「お、おお…」とさすがにこっちもひるむ。私もかつては試す側で、色々な手で担任を試していたときがあるので、不安も分かる。でも、ここでぶれてしまうと負ける。
今、ヨハネの福音書をまた読んでいる。ちょうど荒野でイエス様がサタンの誘惑に遭うところ。
「『主なるあなたの神を試みてはならない』と書いてある。」
というイエス様の言葉がじーんとくる。
決してぶれずに誘惑に打ち勝って下さったからこそ、こうして私も向かい合えるのだ。似たものとして作られたのだから、どうか私もそのようにありたい。難しいけども。
私は、対人間の関係のように、主に依存することはできないと思っている。主は意味なく私たちを傷つけるようなことはなさらない。どんなことももうすでに赦されている。常に味方でいてくださる。主と私との間に、感情と感情のぶつかりあいもない。 色々失敗してしまうけど、主に不信感を抱いたことは一度もない。あたたかいけれど、人間のねっとりした感じはない。試さなくたって、主は私たちの信頼に必ず応えてくださるのだ。
しかし「お試し」も、主にあってうまく収まったのだと思うと、自分の力でがんばっちゃっていたら…と想像するだけでぞっとする。もしあそこでイエス様がサタンにあれこれいらんこと言ってたら(言うわけないけど)…。キリストの地上の生を、もう一度ちゃんと読んでみよう。
0 件のコメント:
コメントを投稿
入力できない場合は、お手数ですがGmailのアドレス宛に送信して下さい。